昭和44年12月28日 特別奉修委員
思うておる事も行のうておる事も、神様が思わせて下さってあるな、神様が行なわせておって下さるなとそれはどのような事、どのような場合でもそれをそう信じれるようなおかげを頂いたら楽ですね。昨日だったか井上さんがお届けしておられて、また月並祭の時だったかな(笑い)おばあちゃんと、その何かいざこざがあった。ほんとにもうあいすみませんという意味のお届けがあっておりましたけれど。
今朝のあのうお届け聞かせて頂いとりますと、ちょうどその直後にアメリカにおられます、ご兄弟からお婆ちゃんにって言うて、お小遣いを送ってきたとこういうわけなんですね。もうあの峰子さんは、いかにも親不孝したようにあるけれども、これは親不孝じゃなかったという事が分かりますね。お婆ちゃんの心をでんぐり返すように、嫌なこと、例えば言うたということは、傷付ける事ですけども、それは、おばあちゃん自身のおかげを切られる事ですよね。
その証拠にそれを又癒す様にの、ね、海を隔てたそのアメリカから、あのおばあちゃんにもうそれで一遍にまぁ機嫌も直られた事であろうと、こう思うですけれどもね。そのう、だからその事もあの神様に、例えば言わせられておったさせられておったと言う様な事ですね。是はんなら私しが昨日も、お詫びの印に私しが、あぁ私しが懺悔をお詫びの印にと言った様な、あぁお話を昨日はね、させて頂いたんですけれども。
昨日後から御理解頂かれた、ある方が言われるように、先生今日の御理解はありゃもう、大変な御理解でしたとこう言うわけなんです。いや今日のんと御理解じゃないですよ、ありゃ私のざんげ話だから(笑い)ってったら、まあ親先生のざんげ話という名の御理解だと、こういうわけなんですね。あたくしもいろいろほんにそうだなと。結局まざんげしなければならないほどしの、お粗末ご無礼がでけておったけれど、でけさせて頂いておったんだという事を。
私しは是をいつも実感するんですよね。ですからそれがそうと信じられれるおかげを頂くところに、私しは心をなんていうんですかね、その自分で結局【我が心の鬼が我が身を責めておるのであってですね、それを責めんですむだけのおかげを頂いておけばね、神様から言わせて頂いておるんだ、思わして頂いておるんだという所まで、だからこれは、一段も二段も信心を高めなければ、できる事じゃないと思いますけれど、】ポイントやはり、目指すところはそこだと。
昨日あの久富さんが、久富勇さんの所の奥さん、クニカさんがお届けをされますのに、ほんとにあれ是と修行さして頂いておりますけれど、おかげを頂きまして子供も浮羽高校へ行っておられます、今日も参ってきてますから。あのおかげで成績もクラス一番におかげ頂いておる。全校では2番だと。ほんとにま勿体無い、私しの共の子供にしてはできすぎる。もうほんとに勿体無いおかげを頂いて。
今日の御理解じゃないけれども、片一方には一生懸命の稽古さして下さっておるかと思うと、片一方にはもう勿体のうして応えんと言う様なおかげを見せて下さっておるんですよ。是はまあ期せずして、私し夕べあのお昼頂きよりましたら、丁度あの子供達がどやどや入ってきて一緒にごはんしましたもん。それから幹三郎が期せずして同じ事を言うんですよ。久富君はね久富正治君は今度全校で2番あのうクラスで一番て。
ああまあ、おかげ頂いたもんじゃあるて(いう)ないけどいる☆意味の事を話しよるんです友達同士。あぁおかげ頂いておるな、そればってんもう、この久富君はもう絶対物言わんと、はありゃいっちょおかげ頂かにゃいかんち言いよるですよ。あのあたしどもの幹三郎なんか、やっぱ同じ時々会うもんですから、ああそのねお友達が一緒に参ってくるけん、おうた時にこう会釈するそうです。けど知らん顔しとる。もう物言うとがすかんらしいんですよね。
しかし是では本人が将来、困るだろうと言う様な事を幹三郎が(言うとを聞いて)この様な意味の事。お母さんから昨日お届けがあった事と、幹三郎言ってる事をこう思わせて頂いてですね。ですからそのそういうな事でもです、本当にあのう例えば、久富さん当りがあれ程しの信心が出来て、どうしてああ次々とあぁした難儀な事が起こるだろうかと思う様に、まあそれも修行をさせられておるという事が分かるでしょうが。
だから、修行もさせられておるのならばですよ、言わせられておる、行わさせられておるという事になるわけなんですようん。そういう事をですね、まぁあの思うんですけれどもね。信心さして頂いて段々、あぁ高度な信心に、ま、今朝あたりの御理解を頂いておりますと、道に基づいてそれがなされてくる時ですね。その道を基づいていっておる所にですね、あの、起きて来る事ですから。
これやっぱりあの言わせられておったり、いかにも自分が失敗したと思っておるけれども、失敗させられておるという事に気付きます。例えばなら昨日当りのま私しは懺悔話と思ったけれども、聞く人は御理解として頂いておる。あぁあたしが失敗しなかったら、あんな御理解たぶん頂きやしませんうん。ですから失敗させられておったんだなと、その証拠に今日はまた、昨日と今日とあの全然打って変わった様なですね。
あたくしの心境ていうのは、あぁ有り難い意味合いにおいての上ですから、これとても当てにやならん、いつまたひっくり返るか分からんけれど、その事とても、やはり神様のおかげの中にあっておる事だというようなね、おかげを頂きたいと、こう思うですね。
どうぞ、一つこのう、なんていうんですかね、こうして日々教えを頂いておりますから、いつもあたくしあの、羽田野さんから、あぁBSですかね。
カレンダーを頂いたわけ、長いカレンダーを。外国向きのですから、あのう私し共は、横文字が分からんものは全然分からないですけどね、ただ数字だけは分かりますけれど。それがこんな長いから丁度あたし何か知らんけどそれに、裏は真っ白でしょ、カレンダーですからね。何か書いてみたいと思うてから(笑い)もう6枚ありますかね、半年一年分、その6枚に、あたしがさっさと?、もう書きなぐるように書かして頂いた中に『はい』っていう言葉があるんですよ。平仮名で書いてる、ね。
でそれをその丁度高橋さん、羽田野さんもまだ帰っておられません、書き終わった時に、羽田野さんあんたから頂いたのにこんなもの書いたちて見せて、羽田野さんの言われるのに、それこそこれを見せて頂いとりましたら、何か知らんけれども、体がじぃんとするようなものを、まあ感じたとこう言われます。字が素晴らしいからでもなからなければ何でもないけれども。
その内容に持積りのがそれだと、あたしは思ったんですね。取分けその『はい』といのが、色々書いてるけどもたった二文字しか書いてない、そのはいっていう事がま、素晴らしくま、羽田野さんの心を打ったとこういうわけなんですね。【あたくしの現在のおかげというおかげが、例えばここに家があり蔵があり、財産がもしあるとするなら、その家も蔵も財産も全てがはいの一字から生まれたんだという事になるんです。
神様の前にどのような例えば、無理難題と思われるような事を言われても、それをただ、『はい』で受けてきたという事。そこから、家、蔵、財産が生まれたんだという事なんですね。】←常語(初代がよく話されていた一言話)ですから、信心にはそのいわゆる、『はい』という素直さというものが、あぁ必要なんですが、ぎこちない心、そのぎこちない心がなかなか、『はい』と言えないわけですからね。
そういうぎこちない心に取り組ませて頂くにも、道がある。その道を行していく所に、今の正治君じゃないけれども、もの言いたくない性分に生まれとると思わずにですね、道を辿れば、道を習えばですね、有り難いことが言えれる、話せれるというか、ね。その、道に基づかないから、あたくしは、言えないという事になってくるんじゃないかというふうに思うのですよ、ね。ですから、只、あの素直という事では、やはりなんと申しますか、ほんとにこう、溶け込めれるというかね。
『はい』という事は、もう全ての中に溶け込んでいけれるものなんです。だからそういう例えば、一つの生き方って言う様なものを身に付けさして貰うと有り難い。そういう道に基づいていく所から、例えば私しが言いよるのじゃないな、言わせられておるのだな、思わせられておるのだな、という事になる。修行そのものもさせられておるのならば、稽古もさせられておるならば、やはりその事も稽古させられておるんだという事になるわけじゃないんでしょうかね。
どうぞ。